KM 文書庫(演劇、音楽、文学)

演劇、音楽、文学、フランス語、ラテン語に関わるテキストを公開します。

アナトール・フランス「聖母の軽業師」

作品名:聖母の軽業師(1890)
作者:アナトール・フランス Anatole France(1844-1924)
翻訳者:片山幹生

---------------------------------

 聖王ルイの時代の話です。フランスに一人の貧しい軽業師がいました。コンピエーニュの生まれで、バルナベという名前でした。バルナベは曲芸や手品をやりながら町から町へと移動する旅芸人でした。

 町のお祭りの日に、彼は町の広場にやってきてそこにすり切れた古い絨毯を敷きます。子供たちや野次馬たちの関心をひきつけるために、彼は滑稽な口上を述べはじめます。先輩の年老いた芸人から教えて貰ったこの口上をバルナベは一字一句変えることなく繰り返しています。それから彼は奇妙な姿勢をとり、スズで出来た小皿を鼻の上にのせてバランスをとります。回りに集まった人間は最初は興味なさげに彼の様子を見ています。

 彼は逆立ちをして、足を使って六つの銅でできた玉を空中に放り投げます。それから日光に照らされきらきらと輝く六つの銅の玉を足で受けとめました。また別のときには、首がかかとにくっつくほど大きく身をそらせて完全なアーチを作ると、その姿勢を保ったまま12本のナイフを使った曲芸を行うこともありました。すると観客たちは感嘆の声をあげ、小銭を絨毯の上に雨のように投げ入れるのでした。

 しかしコンピエーニュのバルナベの生活も大変厳しいものでした。自分の才能を頼りに生きていこうとする者たちはたいていそうなのですが。

 額に汗を流して日々のパン代をバルナベは稼ぐのですが、彼の日々の苦労は、父祖であるアダムの罪ゆえに私たちが背負わなくてはならなくなった労働の辛さを超えるものでした。

 また彼がいくらもっと働きたいと思っていても、働くことができないときがありました。彼の見事な技芸を観客に見せるには、暖かい気候と晴れの日が必要だったのです。ちょうど木々に花を咲かせ、果実を実らせるのに太陽の熱と光が必要えあるのと同じように。冬になるとほとんど枯れてしまったかのような葉の落ちた木しか生えていません。寒さで凍った大地は旅芸人にとっても辛いものでした。マリー・ド・フランスが『寓話集』で取り上げた蝉のように、バルナベも冬の厳しさのなかで寒さと飢えに苦しむのでした。しかし純朴な心の持ち主だったバルナベは、その辛さをじっと耐えしのんでいました。

 バルナベは富の起源や人間の条件の不公平について考えたりすることはありませんでした。彼が固く信じていたことは、もしこの世がよくないものなら、あの世はきっと素晴らしいだろうということでした。この希望が彼を支えていたのでした。彼は悪魔に魂を売り渡したごろつきや無信仰の旅芸人の輩の真似をしたりはしませんでした。バルナベは神の名を冒涜するような真似は決してしませんでした。彼は誠実に生きました。そして彼は妻を持っていませんでしたが、だからといって隣人の妻に欲情することもありませんでした。というのも旧約聖書で記されているサムソンの物語にあるように、女性は強い男たちにとっての敵だからです。

 彼の精神が肉欲に向かうことは決してありませんでしたし、彼にとっては女性たちより酒をあきらめることのほうが辛かったのです。節度を持った飲み方でしたが、バルナベは暑い日に酒を飲むのが好きでした。バルナベはこのように神を畏れ、聖処女マリアを熱心に信仰する善なる人間だったのです。 

 教会に入ったときには、神の母の絵姿の前にいつもひざまづき、次のような祈りを唱えるのでした。

「マリア様、私の命が神に召されるまで、私に気をかけてください。そして私が死んだときには、私に天国の喜びをお与えください」

  

II

 さてある夕べのことです。その日の日中は雨が降っていたため、バルナベは悲しげに背中を丸め、ボールを脇に抱え、古くなった絨毯にナイフをくるんで、食事もとらずに、身体を横たえて休むための納屋を探して歩いていました。彼は同じ道を歩く一人の修道士に気づき、修道士に向かって礼儀正しく挨拶をしました。同じ速度で並んで歩いていた二人は、言葉を交わし始めました。修道士がバルナベに尋ねました。

「お前さんは何でまた全身緑色の服を着ているんだい? 聖史劇で阿呆の役を演じるわけじゃないだろう?」

 バルナベは答えました。

「お坊様、もちろん違いますよ。私はバルナベと申します。旅芸人をやっています。毎日、食べていけるだけの稼ぎがあるのなら、こんなにいい商売はありませんよ」

「バルナベさん、お言葉ですがね、」僧侶が言いました。「修道院での生活ほど素晴らしいものはないですよ。神や聖母や聖人たちを讃えるのが修道院での生活ですからね。宗教的な生活を送るということは、主に対していつも賛歌を歌っているのと同じ事なのですから」

 バルナベは言いました。

「お坊様、まったくおっしゃり通り、私は無知ゆえに愚かなことを言ってしまいました。あなたのご身分と私の身分とを比べるなんてとんでもない話ですね。棒の上でバランスをとりながら目の前のドゥニエ銀貨をとりながら踊ることに何らかの価値はあるにしても、こんなことでお坊様のお仕事に近づけるものではありません。私もあなた様のように、ああ、毎日聖務を行い、聖歌を歌いたいとは思ってはいるのですけれど。特に崇高なる聖マリア様へのお祈りを捧げることができたなら。私は聖マリア様には特に大きな信仰を抱いているのです。もし修道生活に入ることができるというなら、私は喜んで今の芸人としての生活を捨てますよ。この技芸のおかげで私はソワソンやボヴェ、600以上の町や村で知られてきたのですけれどね」

 修道士はこの芸人の純朴さに心打たれました。この修道士は見識の持ち主だったので、バルナベのなかに、「平穏が地上において彼らとともにあるように」と主が言った人々の善意を認めました。そういうわけで修道士はバルナベに次のように答えたのです。 

「バルナベ、私と一緒に来るがいい。私が修道院長をやっている修道院にあなたを迎え入れましょう。エジプトの聖マリアを砂漠に案内したおかたが、救済の道へと貴方を誘うように、私をあなたと同じ道を進ませたのです」

 こうしてバルナベは修道士になりました。彼を受け入れた修道院では、修道士たちは競うようにして聖母マリアへの信仰をとり行っていました。それぞれが神が与えた知識と能力をすべて使って彼らは聖母に仕えていました。

 修道院長といえば、彼はスコラ学の規則にしたがって、神の母の美徳を取り扱った本を何冊も書いていました。

 モリス修道士は、学識があったので、こうした教えの書を犢皮紙[死産した子牛の皮から作りparchemin「羊皮紙」より薄い]に書き写していました。

 アレクサンドル修道士はそこに美しい細密画を描きました。そこに描かれていたのはソロモン王の玉座に座る天空の王妃、すなわち聖母マリアの姿でした。この玉座の足元には四匹のライオンが見張りをしています。聖母マリアの頭には光輪が輝き、その周りを七匹の鳩が飛び回っていました。この鳩たちは聖霊からの贈り物で、それぞれ恐れ、哀れみ、智恵、力、助言、知性、英知を表していました。聖母は金髪の六人の乙女を伴っています。彼女たちはそれぞれ謙遜、慎重さ、慎み、敬愛、純潔、服従を表しています。

 マリアの足元には真っ白な裸体の二人の小さな人物の像がありました。この二人は懇願しています。自らの救済を全能の神にとりなしてくれるよう嘆願する魂を表しているのです。

 アレクサンドル修道士は、もう一方のページにマリアに対してイブの姿を描いていました。それは同時に罪と贖い、辱められた女と称揚される処女を同時に見ることができるようにするためでした。この本に書かれている清水の湧く井戸、泉、ゆりの花、月、太陽、賀歌のなかで歌われている閉ざされた庭園、天空への扉、神の国の絵も、見た人々を感嘆させることでしょう。そこには聖処女の様々なイメージが描き出されているのです。

 マルボド修道士はおそらく聖母マリアの子供たちのなかでもっとも心優しい人物でしょう。

 マルボドはいつも石像を刻んでいたので、彼のひげ、まゆ、髪の毛は石の粉で白くなり、彼の目はいつも腫れて、涙をためていました。しかし彼は老齢になっても活力にあふれ、喜びに満ちていました。天国の女王は明らかに年老いたこの彼女の子供を保護していました。マルボドは説教壇に座っているマリアの像を刻みました。そのマリアの顔にはきらきらと光る半円の光輪に照らされていました。そしてマルボドの彫ったマリア像では、ひだのついた長衣が足元を覆い隠していました。このマリアについて預言者は「わが愛する人は閉じた庭園のようだ」と形容されました。

 マルボドのマリア像は優美な童顔のこともありました。そのマリア像は「主よ、あなたは私の神です」(『詩編』21-11)と言っているように見えました。

 修道院には何人かの詩人もいました。彼らはラテン語で至福の聖母マリアを讃えるプロザや賛歌を作りました。ピカルディ人が一人いて、この男さえ民衆の話すフランス語で聖母の奇跡を韻文で書いていました。

 

III

 このように修道士たちがマリアを競って賛美し、作品として表現しているさまを見て、バルナベは自分が何も知らない愚かな人間であることを悲しみました。

 修道院の日影のない小さな庭を一人で散歩しながら彼はため息をつきました。「ああ、なんて私は不幸なのだろう。私には何もできやしない。兄弟たちのように堂々と神の聖母を讃えるすべを私は知らない。心から私はあの方に身を捧げているというのに。ああ、ああ。私は無骨で何もできない人間だ。聖処女様、私はあなたに奉仕したいのに、立派な説教も、規則に沿って分割された論説も、美しい絵画も、正確に彫られた彫刻も、韻律を踏まえた詩行も作る能力がないのです。私は、ああ、何もできることを持っていません」

 彼はこのように嘆き、悲しみにうち沈みました。ある夜のこと、修道士たちがおしゃべりをしてくつろいでいるました。バルナベは修道士のひとりがとある修道士の話をするのを耳にしました。その修道士は《アヴェ・マリア》を唱えることしかできなかったというのです。彼の無知を他の修道士たちは馬鹿にしました。しかし、その修道士が死んだとき、彼の口から5つの薔薇の花が出てきました。その五輪の薔薇は聖母マリアの名前の五つの文字、Mariaを讃えるものでした。この修道士の敬虔さはこのようなかたちで現れたのです。

 この話を聞くと、バルナベは聖母の善意に何度も感嘆しました。しかし彼の心はこの幸福な死者の話を聞いても慰められることはありませんでした。なぜならバルナベのこころは神への情熱に満ちていて、彼は天空にいる聖母の栄光に奉仕したいと思っていたからでした。

 彼はその方法を考えてみましたが、何も思いつきません。そのため彼の悲しみは日々がたつにつれ段々深くなっていきました。ある朝、とても幸せな気分で彼は目覚め、礼拝堂へ走っていきました。そしてそこに一人で一時間以上閉じこもっていました。彼が戻ってきたのは昼食後のことでした。

 この日から、彼は毎日、誰もいない時間帯に礼拝堂に行き、そこで他の修道士たちが学芸や工作に打ち込んでいるあいだはほぼずっとそこで過ごしました。彼はもう悲しくはなかったし、嘆くこともありませんでした。

 彼のこの奇妙な行動に他の修道士たちが興味を持ち始めました。

 修道士たちは仲間内でなぜバルナベ兄弟はこんなに頻繁に礼拝堂に引きこもっているのだろうと噂し始めました。

 修道院長は自分の修道院の修道僧たちのふるまいについて全て知っておく必要があります。修道院長はバルナベが一人のとき、一体何をしているのか観察することにしました。ある日、バルナベがいつものように礼拝堂に閉じこもると、修道院長は修道院の長老修道士二人を連れて、扉の隙間から中で何が起こっているのかを観察しに行きました。

 バルナベの姿が見えました。彼は聖母マリアの祭壇の前で、頭を下に、そして足を上に上げ、六個の銅製のボールと十二本のナイフを使った曲芸を行っていたのです。彼は聖なる神の母親を讃えるために、彼がこれまで最も大きな賞賛を得た曲芸をやって見せていたのでした。この素朴な男が聖母マリアのために、その才能と知識をこのように使っていることを理解できなかった二人の古株の修道士は、聖母を冒涜していると大声を上げました。

 修道院長はバルナベが純朴な心の持ち主であることを知っていました。しかし修道院長もバルナベが狂ってしまったと思ったのです。三人はバルナベを礼拝堂から乱暴に連れ出そうとしました。その時です。聖母マリアが祭壇の階段を下りてきて、着ていた青い上着のすそで、自分に芸を見せてくれていた芸人の額からしたたる汗を拭き取ったのです。

 その様子を見た修道院長は聖母の前で敷石の前にひれ伏して、次のような言葉を唱えました。

「素朴な者は幸いなり、なぜなら彼らは神を目にするだろうから」

 二人の古株の修道士たちは「アーメン」と唱え、地面に接吻しました。

 

------------------------

翻訳の底本:Anatole France, L’Étui de nacre, Paris, Caimann-Lévy, 1899, p. 93-105.
上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:片山幹生
※ 翻訳者のメールアドレスは、mikiokatアットマークgmail.comです。作品・翻訳の最新情報やお問い合わせは、青空文庫ではなく、こちらにお願いします。
2013年3月3日翻訳
2013月3日ファイル作成

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 改変禁止 3.0 非移植 ライセンスの下に提供されています。