フルリ写本『ラザロの復活』劇(作者不詳, 12世紀):翻訳と註解
片山幹生
1.典礼劇についてヨーロッパの演劇の歴史は、古典古代の演劇伝統とは切り離されたところから始まった。その源となったのは、ローマ・カトリック教会の典礼で歌われていたトロプス« tropus »である。トロプスはラテン語の修辞学では比喩、 語の転義的使用を意味していたが.それが典礼聖歌に付け加えられた旋律および説明的歌詞を指すようになった。《キリエ》や《アレルヤ》といった聖歌の最後の音節にメリスマと呼ばれる音楽的装飾が施されるようになり、9 世紀になるとその装飾部に聖歌の内容を説明する歌詞が新たに付け加えられるようになった。この付加された旋律と歌詞がトロプスである。トロプスはしばしば聖歌隊の二つのバートによる対話の形式をとった。この対話形式のトロプスが演劇的なかたちに発展していく。
975年頃にウインチェスター司教の聖エテルウォルドがベネディクト会修道士のために記した『聖務規則集』Régularis Concordiaに記載されている « Quem quæritis »「お前たちは誰を探しているのか?」が西ヨーロッパにおける現存する最古の演劇作品とされている。« Quem quæritis »は、復活の主日の夜明け前、朝課の最後の部分で演じられる。その中ではイ工スの墓を訪れた三人のマリアに天使がイエスの復活を告げる場面が再現されている。このテクストの演劇性は、この場面を歌う聖職者たちの動きや道具、衣装等を記したト書きの存在によって明らかだ。この演劇的な宗教的コーパスを19世紀フランスの文献学者、フェリックス・クレマンが「典礼劇」 drame liturgiqueと名付け、以後この名称が定着した[1]。典礼劇は10世紀[43頁]以降、16-17世紀までヨーロッパ各地の修道院・教会で上演された。その最盛期は12-13世紀であり、およそ600作品か現存している[2]。
典礼劇は演者の動きなどを指示するト書きと登場人物による対話からなる戯曲形式で書かれたテクストではあるが、作品は典礼の精神と深く結びついていた。典礼の目的は、一連の儀式的な動きによって時空を再構成することにより、時空を非日常的で聖的なものへと変質させることにある。典礼劇の目的は、儀式の一部を〈代行=再現=表象〉という演劇的手段で表現することで、その聖的な時空間のなかで神へ接近し、そして合一の感覚を味わうことを通して神を賛美することにあった。典礼劇の上演は人間の観客に向けられたものではなく、その本質的な観客は目に見えない神である。典礼劇の演者は聖職者であり、そのテクストはラテン語で、そして台詞はすべて歌われていた。
現存する典礼劇の三分の二にあたる約400作品は、イエスの復活を天使が三人のマリアに告げる「聖墳墓への訪問」Vistatio sepulchriのエピソードを題材としており、これらの作品の多くは復活祭の朝課の際に上演されたと考えられている。復活祭に次いで多いのが降誕祭に上演されたと考えられる典礼劇である。現存する典礼劇の大半はこの二つの祝祭の折に上演されたものだ。
2.フルリ写本と『ラザロの復活劇』
新約聖書のヨハネ福音書第11章にある「ラザロの復活」のエピソードを題材とする典礼劇は12世紀の二作品が現存している。そのうちの一編はアベラールの弟子のヒラリウスによる作品であり[3]、もう一編がここで翻訳したフルリ写本(Ms Orléans 201)に所収された作者不詳の作品である。現在、オルレアン市立図書館に所蔵されているフルリ写本は、元々はサン=プノワ=シュール=ロワールにあるフルリ修道院にあったものだった。写本の全ページの画像はオルレアン市立図書館の電子図書館サイトで参照可能になっている。このフルリ写本の173ー243ページに十の典礼劇が所収され[4]、「ラザロの復活劇』は写本に記録されている典礼劇の最後, 233-243ページに書き記されている。
[44頁]フルリ写本の「ラザロの復活劇』の台詞はすべて韻文であり、10音節詩行 2行と4音節詩行1行からなる半詩節を2回繰り返す6行の詩節(脚韻型は aab aab)51詩節で構成されている。台詞はすべて楽譜の下に記されている。同一の構造の詩節が最初から最後まで続き、単旋律で歌われることの単調さは免れないが、この形式上の東縛は作品の荘重で厳粛な雰囲気を強調する上では効果的であると言えるかもしれない。6行詩節は話者の交替で分断されることもあれば、一回の台詞で複数の詩節が用いられることもある。しかし概ね台詞は1詩節ないし2詩節ごとに交替する規則性を持っている。同一の台詞が3詩節を超える箇所は一箇所だけである[5]。ト書きのテクストは散文で、演者の動き、場所、台詞の話者等が記されている。
作品冒頭には« Incipiunt Uersus de Resuscitacione Lazarl »「ラザロの復活についての唱句、はじまる」とあるが、作品の51行目まではヨハネ福音書11章にある「ラザロの復活」のエピソードではなく、イエスがマリアに香油を注がれたエピソードを劇化したものになっている。イエスがマリアに香汕を注がれるというエピソードは四福音全てに記載されているが[6]、『ラザロの復活劇」の作者はルカ福音書の記述を主な材料としつつ、他の福音書の記述を部分的に採用している。
復活劇のなかでイエスとその弟子たちを自分の家に招くのは.シモンである(ラザロではない)。食卓の準備が整ったところに「娼婦の服装を着たマリア」(すなわちマグダラのマリア)が現れ、イエスの足を涙で洗い、イエスの頭に香油を注ぐ。イエスはシモンに二人の債務者のたとえ話をし、女の罪を赦し、祝福する。
四つの福音書のうち、二人の債務者のたとえを記述しているのはルカ福音書だけである。しかしルカは香油を注いだ女の名前を伝えておらず、「罪ある女」« mulier peccatrix »と記している。ルカはシモンの家がどこにあるのかは記していない。マルコとマタイにも女の名前は記されていないが、シモンの家がベタニア(イエルサレム近郊にある村)にあることを伝えている。女の名前を「マリア」と伝えているのはヨハネ福音書だけである。そしてヨハネ福音書でこのマリアは、ベタニアに住むラザロの姉の一人を指す。そしてイエスを家に招いたのは、イエスによって蘇生させられたシモンではなく、ラザロである。復活劇ではマリアはイエスの頭に香油を注いだ。福音書で香[45頁]油を頭に注いだのはマルコとマタイの女である。ルカとヨハネでは女は香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でそれをぬぐったと記述されている。
「ラザロの復活」を主題とするこの劇の冒頭に「ベタニア塗油」のエピソードを付加した作者の意図は何だっただろうか。ヤングは. これはルカの「罪ある女」をマグダラのマリアとみなし彼女がベタニアに住むマリア、すなわちラザロの姉のマリアと同一人物であると考える中世の伝統的な解釈を踏まえたものであると指摘している[7]。二つのエピソードを並べることで、その二つに共通する登場人物であるマリアの同一性が強調される。
残りの約250行はヨハネ福音書11章の「ラザロの復活」の記述をほぼ忠実に追った内容になっている。ラザロが瀕死の病人となり、彼の姉のマルタとマリアはイエスに使者を送って、ラザロの治癒のために来てくれるよう頼む。しかしイエスはすぐには出発しなかった。そのためイエスがベタニアにあるマルタとマリアの家に到着したときには、ラザロは死んで既に四日たっていた。嘆き悲しむ姉妹とユダヤ人たちを見て、イエスも涙を流す。イエスは奇跡を起こし、既に墓のなかで腐敗が始まっていたラザロを蘇生させる。福音書の記述と比較すると、フルリ写本の『ラザロ復活劇』では姉妹の嘆きとユダヤ人の励ましに大きな敷衍があり、その台詞は厳格な韻文形式のなかに押し込められているにもかかわらず、人間的な感情が生き生きとリアルに描き出されていることが印象的だ。
上演のためにはべタニア、ガリラヤ(イエスと弟子たちがいたところ)、イエルサレム、そしてラザロの墓の四つの《場》が必要となる。それぞれの《場》のあいだには。« platea »と呼ばれる演技エリアがあり、演者たちは。« platea »を横断して《場》を移動していたことがト書きの記述からわかる。
「ラザロの復活劇』がどのような機会に上演されていたかについてはよくわかっていない。他の多くの典礼劇同様、劇の終わりに« Te Deum »が歌われることから、朝課で上演されていた可能性が高い。復活祭のときに歌われるセクエンツィア、« Mane prima sabbati »を冒頭で歌うことか指示されていることから、復活祭の時期の朝課に歌われたと考える研究者がいるが、このセクエンツィアは« beata peccatrix »「麗しき罪人」であるマグダラのマリアを讃える歌でもあるため(マグダラのマリアは劇の冒頭で登場する)、[46頁]復活祭の時期の上演の証拠とは必ずしもならない。内容から言って12 / 17 の聖ラザロの祝日に上演された可能性も否定できない[8]。Frankは特定の祭日の聖務日課とは関係なく、何回かこの作品が上演された可能性を示唆している[9]
本稿での『ラザロの復活劇』の翩訳はヤングの校訂[10]を底本とし、コーエンの校訂とフランス語訳[11]、そしてオルレアン市立図書館のウエプで公開されているデジタル化された写本画像データ[12]を適宜参照した。訳文はラテン語原文の3行(10音節詩行×2と4音節詩行、半詩節に相当)ごとに改行している。また各台詞のあとの数字は、詩行数を記している(ト書きの行数は含んでいない)。
まずシモンが数人のユダヤ人とともに入場。シモンは自分の家にとどまる。その後、イエスが弟子たちとともに演技エリア[15]に入場。イエスの弟子たちは、« In sapientia disponens omnia »「知の中にあらゆることを詰め込み」あるいは« Mane prima sabbati »「安息日の翌日(日曜)の朝」を歌いながら入場する。
第一場:シモン、イエス、イエスの弟子たち[16]
シモンがイエスに近づき、自分の家に招く。シモンは言う:「私の汚れた身体[17]をあなたのお力で癒して下さい。
願いを聞き入れて頂ければ、嬉しく存じます。さあ、私どものもてなしをどうぞお受け下さい[18]」7
イエスは弟子たちに言う:
「兄弟たちよ、友のありがたい申し出を聞きましたか? ご厚意に甘え、もてなしを受けることにしましよう」13
第二場:イエス、シモン、マグダラのマリア[19]
それからシモンはイエスを自分の家に招き入れる。食卓の準備が整った。す[47頁]ると演技エリアに娼婦の服装を着たマリアが現れる。マリアは主の足元にくずれおれる。それを見たシモンは憤慨し、小さな声で次のようにつぶやく。
「もしこのお方が神の血をひく者なら[20]……」
この箇所については福音書を参照せよ[21]。 するとイエスがシモンに言う:
「シモン、私はお前に話さなければならないことがある。お前が考えていることは私にはお見通しだよ」18
シモン「それでは先生、お話下さい。先生がお話なさることなら、どんな話でも私は聞く用意がありますから」21
イエス「ある男が二人の人間に金を貸した。二人に貸した金額は同じではなかった。
二人とも借金を返済することが出来なかった。男は二人の返済を免除した。さてここでお前の考えを聞きたい。この二人の債務者のうち、どちらが貸し主に対してより感謝すべきだろうか[22]?」30
シモン「敬愛する師よ、借金の額が多かった方がより感謝すべきでしょう」33
イエス「まったくそのとおりだ。シモン、お削の考え方は間違っていない。ところでお前はもし私がこの女が何者かわかっていれば、この女が私に触れることを、私は許さなかったはずだとつぶやいたね?
お前は私を家に迎え入れてくれたが、私の足を水で洗ってくれなかったし、私の頭に香油を注いでくれなかった[23]。
でもこの女は私の足を自身の涙で洗い、私の頭に高価な香汕を注いでくれたのだ」45
それからイエスはマリアに向かって言う:
イエス「ああ! 女よ、お前は私を精一杯愛してくれた。お前の犯した罪は、お前の涙によって洗い流された。お前はその口で罪を告白し、その心で悔い改めたのだから、もう罪人ではない[24]」51
この後、[イエスの足元にひれ伏していた]マリアは立ち上がり、そして椅子に座る。イエスは弟子たちとその場を立ち去る。イエスはガリラヤ[パレスチナ北部]とみなされる場所[25]に向かう。イエスが座る場所が向かい側[48頁]に[26]用意される。ユダヤ人たちは、イエルサレムとみなされる別の場所に向かう。ユダヤ人たちはそこから二人の姉妹をなぐさめるために、べタニアとみなされる場所にやって来る。一方、シモンは退場し、彼がいた家がベタニア[のラザロの家]となる[27]。そしてマルタがその家に連れて来られる。さらにラザロも。ラザロは病気のため衰弱している。弱り切ったラザロのそばで、マルタは[マリアに]言う:
第三場:べタニアにて。ラザロ、マリア、マルタ[28]
「マリア、かわいそうだけどラザロの病気はよくならないでしょう。
父なるイエス様の偉大な慈悲にすがらなくては、弟は元気になりません。
私たちを守り、私たちを励ますことができるのはあのお方だけ。
イエス様は今ここにはおられないけど、そのお力でどこにでも現れることができるはずです」63
マリアは答える:
「すぐにイエス様に使者を出しましょう。お願いすれば、助けてくれるはずです。
私たちがどんなに悲しんでいるのか知れば、あのお方は悲しみを和らげてくれるでしょう。
あのお方が私たちの状況を全く知らないはずはない。でも使者を送って直接伝えたほうがいいと思います。
使者を通してイエス様にご慈悲をお願いすれば、イエス様は私たちに会いに来てくれるはすです」75
第四場:マリア[29]、 使者たち
マリアは次のように使者たちに話す.
「ここからイエス様のもとへ向かって下さい。そしてこのメッセージを伝えて欲しいのです。
私たちの願いを聞き届けてください、病気で弱っている弟をお助け下さい、と。
メッセージを聞けば、ラザロの家族がどれほど大きな悲しみに包まれているのか、優しい父であるイエス様はおわかりになるはずです。
[49頁] イエス様のお力があれば、この重苦しい悲しみはすぐに消え去ってしまうでしょう」86
第五場[30]:使者たち、イエス、弟子たち
使者たちがイエスに:
「万人の贖い主であるイエス様、あなた宛のことづてを預かっております。どうぞお聞き下さい。
マルタとマリア[31]が苦しんでおります。彼女たちにご配慮を。彼女たちの願いを受け入れ、お聞き入れ下さい。
彼女たちの弟のラザロがベッドで寝たきりになっています。重病でまったく動くことができません。ラザロを助けてあげてください。
彼女たちのところに行き、ラザロから病気を追い出して欲しいのです。よろしくお願い申し上げます」99
イエスが使者たちに:
「私は彼女たちのところに必ず行くつもりだ。しかし今はまだその時ではない[32]。ラザロの病は死に至るものではない。彼は病から必ず解放される。私がラザロの病を治す場に立ち会った人たちは、びっくりするに違いない」105
イエスが弟子たちに:
「ラザロの病はお前たちにとっては僥倖となるはずだ。信仰薄き者たちの存在を私はお前たちとともにずっと嘆かわしく思っていた。お前たちは救世主キリストを讃えてきた。長い間苦しい思いをさせたが、まもなくそのつらさから解放されるだろう」112
ユダヤ人たちがマルタとマリアの姉妹をなぐさめにやって来る。ユダヤ人たちは歩きながら話す:
「さあマリアとマルタの家に行こう。二人は悲嘆にくれ、大声で泣いている。
マリアとマルタは、弟のラザロにふさわしい心優しい姉妹だ。私たちにできるかぎり、彼女たちの悲しみをなぐさめてやろうではないか」117
ユダヤ人がマリアとマルタの家にやって来る。ラザロは死の床にある。マリアとマルタが言う:
「イエス様はまだ来ない。いくらなんでも遅すぎる。私たちが希望を託することができるのはあのお方だけなのに。
ああ! ああ! あの方を待っていても無駄だった。弟の恢復を神は望まれなかったのだ。
ほら、ラザロは死んでしまった! 死の掟に従って、身体がもう腐り始めている。
ここでこんなに悲しい目にあうなんて。可哀想なラザロ、苦しくつらかっただろうね。
愛しい弟、可愛い弟! 死の責め苦にさいなまれた挙げ句、お前は私たちを置いて逝ってしまった。
最初の人間が犯した原罪ゆえに、お前はひどい苦痛を味わうことになってしまった!」135
ユダヤ人たちは,彼女たちをなぐさめようとして言う:
「つらいとは思いますが、どうかお気持ちをしっかりとお持ち下さい。 こんなに悲しんでいるとは。なんとかして励まさなくては。
このたびのご不幸については、私たちも心よりお悔やみ申し上げます。 しかし死というものをそう嘆いてばかりいてもしかたありません。
私たちも彼と同じように死んでしまうのです。死のかぎ爪から逃れることのできる人間はいません。
生死の掟に従って、この世に生まれた私たちは皆、いずれ肉体の牢獄から抜け出るのです。
かわいい弟が死んだのですから悲しいのは当然ですが、そんなに泣かないで下さい。死は喜ぶべきことでもあります。
死によってラザロはようやく、多くの苦痛から解放されたのですから。もうラザロは、生きている他の人たちが耐え忍ばなくてはならない労苦から脱することができたのです」153
姉妹たちが言う:
[51頁]「今はつらく悲しいばかり。ラザロ、 お前は本当に愛らしい弟だった。私たちを置いて逝ってしまうなんて! ことばではこのつらさを言い表すことができない。
私たちを憎む人たちが嫌がらせをしにやって来るに違いない。私たちから財産を奪いとろうとするに違いない。
可愛い弟、愛するラザロ! もうお前と一緒にいることはできない。だから私たちは泣いているのだ。
死がお前を奪い取った。私たちはお前と一緒に死ぬことができなった。死がねたましくてならない」165
ユダヤ人たちが言う:
「敵の攻撃に対し、ラザロは盾を手にあなたがたを守ることができなくなりました。しかしラザロはお二人を見捨てたわけではありません。
あなたがたには至高の父である神がいます。神があなたがたを守ってくれるでしょう。
あなたがたは十分にご承知のはず、神のご意向にそってラザロがこのように死んだことを。
どんなにつらい思いをしたとしても、神のご意志に逆らうことは私たちには許されていません。
私たちはうやうやしく神に懇願しなくてはなりません。ラザロの魂に真実の日が与えられることを。
ラザロが天空の玉座に座り、常に歓喜と平安のなかで過ごすことを」183
第八場[35]:イエス、弟子たち
この間、イエスは道を進む。イエスは弟子たちに言う[36]:
「私たちはこれからユダヤの地[37]、に向かう。そこで眠っているラザロを日覚めさせるのだ。
彼の姉二人が今、涙を流し、悲嘆に沈んでいる。彼女たちを元気づけなければ」189
弟子たちはイエスに言う:
「どうしてユダヤの地に? ユダヤ人たちがあなたを殺そうと探し回っていることはよくご存じのはずです。
[52頁]殺し合いを敵味方の双方がほめ称えるような事態をお望みなのですか?」195
イエスは弟子たちに言う:
「お前たちは私に反論することは許されていない。お前たちは私の言葉には従わなくてはならない。
ここまで隠されてきた神のお力が、ユダヤ人によって、ユダヤの地で,はっきりと示されるだろう」200
トマス[38]「イエス様に付き従い,そのお考えが成し遂げられるようにしようではないか。
イエス様とともにユダヤの地へ急いで行き、そこで一緒に死のうではないか」207
第九場[39]:使者のうちの一人、マルタ、マリア
イエスはユダヤの地へ向かう。使者たちのうちの一人が走ってやってきて、マルタに言う:
「ほら, ごらんなさい! あなたがたの喜びとなる人がやって来ますよ! 私たちが待望していたあのお方、諸民族の救世主となるお方がやって来ますよ!
あなたがたの悲しみはもうすぐ終わります。イエス様はラザロの苦しみも取り除いてくれるはずです」213
これを聞くと,マルトはイエスのもとに駆けつける。そしてその足元にすがりついて言う:
「もしあなたがここにいて下さったのなら、弟は死の攻撃をはねつけ、生きていたでしょうに[40]。
私たちはあなたのお力がどんなものであるかを知っています。そしてあなたが神であることを心から信じています。
神はあなたが望むものを、それが何であろうと、お与えになることを私たちは知っています。
あなたがお命じになれば、私の弟は死者たちのなかから生き返ることができるのですが」225
イエスはマルタに:
「弟のよみがえりをあきらめてはならない。お前はラザロのよみがえりを信[53頁]じなくてはならないし、信じることができるはすだ。
お前は知っているだろう、私を信じ、私を愛する者は決して死ぬことはないことを」231
マルタ「弟が終わりの日によみがえることは、ちゃんとわかっていますよ。
最後の審判がなされるあの日、灰燼のなかから死者たちの肉体かよみかえるというあの日に[41]」236
イエス「私がまさにお前たちにとってのよみがえりであり、お前たちに絶望が忍び込むことはできないのだ。
なぜならお前たちは、精一杯の熱意で、私の父に自らを捧げ仕えようとしているのだから。
行ってすぐマリアを呼んで来なさい。そして後で、お前の弟の墓に私を連れて行って欲しい。
そこで多くの人間が私の父の偉大なる力をはっきりと目にすることになるだろう」248
第十場[42]:マルタ、マリア、ユダヤ人たち
マルタは妹のところへ行き、耳元でささやく:
「先生がお前を呼んでいるよ[43]」250
マリアは黙って家を出る。ユダヤ人たちが言う:
「かわいそうに、マリアは全身を震わせて泣いていた。マリアは墓に向かっている。
こんなに悲しんでいる彼女を放っておくわけにはいかない」256
第十一場:ユダヤ人たち、マリア[44]、イエス、弟子たち
こういったことを言いながら、ユダヤ人たちはマリアの後を追う。マリアは主の足元に何度もくずれおれ、言う:
「慈悲と愛の源であるイエス様、弟の死で私たちは悲しみにうち沈んでいます。
あなたがここにいなかったせいで、死が弟に忍び寄り、弟を打ち倒してしまいました。
私たちをお憐れみ下さい。私たちがなぐさめを得ることを期待できるのはあ[54頁]なただけなのです。
さあ、私たち全員をお憐れみ下さい、お憐れみ下さい。私たちになぐさめを与えるのがあなたのお役目ではないでしょうか[45]」268
イエスは激しく息をし、涙を流して言う[46]:
「さあ私を墓地に連れて行くのだ。そしてどれがラザロの墓なのか教えて欲しい。
お前たちの悲しむ様子に私の心は揺さぶれた。お前たちの嘆きと思いやりに私は心動かされたのだ」274
第十二場[47]:イエス,ユダヤ人たち,マルタ
そのそばにいたユダヤ人たちのうちの一人が、いぶかしげに言う:
「この人は盲人の目を見えるようにしたのだから、ラザロを死から救い出すこともできたはずではないか?
この人は私たちに祈り方を教えてくれたが、この姉妹が真摯に祈っていたにもかかわらず、どうしてこの場にすぐに来ようとはしなかったのか?」280
イエスは墓地まで行き、言う:
「すぐに岩を取り除きなさい。そして墓の扉をすぐに開けなさい。
驚くべき奇跡をあなたがたは目にし、神の名を賛美することになるだろう。今がまさにそのときなのだ」286
マルタ「四日前から、ラザロはここに安置されていました。肉が腐り、悪臭が漂っています」289
イエス「あきらめてはならない。お前は父なる神の栄光とその息子の力を目にするだろう」292
イエスは空を見上げ、次のように祈り、言う:
「神よ、私はあなたの永遠なる力であり、息子であると見なされる者です。神よ、あなたの息子である私に栄誉を、そして私の名前に栄光をどうかお与え下さい」298
ラザロに向かって:
「今、私は大きな声でお前に呼びかける。さあ外に出て、お前の父たちを喜ばせるのだ! お前のよみがえりは敵たちにとって痛手となり、疑い深き人たちにとって神の力を証明するものとなるだろう」
[55頁]よみがえったラザロが座ると、イエスは人びとに言う:
「さあ、よみがえったラザロの死衣を脱がせ、自由に行かせるがいい。ほら、なぜ呆然としているのだ[48]?
神には不可能なことはない。お前たちは全能なる神の力をはっきりと目にしたのだ」310
聖歌隊が《主よ、あなたを讃えます》 « Te Deum laudamus »を歌い、終わる。
[1] Clément (Félix), « Liturgie, musique et drame du Moyen Âge », Annales archéorogiques, t. 7 (1847), 303-20 ; 8 (1848), 36-48, 77-87 ; « Le drame liturgique », t. 8 (1848), 304-11 ; 9 (1849), 27-40, 162-74 ; 10 (1850), 154-60 ; 11 (1851), 6-15.
[2] ヤングとドナヴァンが採集した作品の総数。Cf. Young (Karl), The Drama of the Medieval Church, Oxford, Clarendon, 1993 ; Donavan (Richard B.), The Liturgical Drama in Medieval Spain, Toronto, Pontifical Institute of Medieval Studies, 1958.
[3] Paris, BnF supplément latin n. 1008, fol.9r-10v : Hilarii versus et ludi. 校訂テクストはYoung (Karl), ibid., t.II, p. 212-218 ; Cohen (Gustave), éd. et trad. en fr., Anthologie du drame liturgique en France au Moyen Âge, Paris, Le Serf, 1955, p. 92-106.
[4] フルリ写本に所収されている典礼劇は以下の十作品(cf. Frank (Grace), The Medieval French Drama, Oxford, Clarendon, 1954, p. 44ー51 (Chap. IV : The Fleury Play-Book) :
- 聖ニコラに関する劇
- Tres Filie(三人の娘)
- Tres Clerci (三人の聖職者))
- Iconia Sancti Nicholai (聖ニコラの像)
- Filius Getronis(ゲトロニスの息子)
- 降誕祭の劇
- Orod ad Representandum Herodem(ヘロデ王の劇。イエスの降誕)
- Interfectio Puerorum(幼児虐殺)
- 復活祭の劇
- Visitatio Sepulchri(聖墳墓訪問。イエスの復活)
- Peregnnus (旅人。エマウに復活したイエスが現れるエピソード)
- 改宗と復活についての劇
- Conversio Sancti Pauli(聖パウロの改宗)
- Resuscitatio Lazari(ラザロの復活)
[5] 118-135行。マリアとマルタの台詞。
[6] マルコ14章1 -9節、マタイ26章6-13節、ルカ7章36-50節、ヨハネ12章1-11節。
[7] Young, op. cit., Vol. 2, p. 209.
[8] Young, ibid., p. 211.
[9] Frank, The Medieval French Drama, p. 46.
[10] Young, op. cit., p. 212-218.
[11] Cohen, op. cit., p. 70-91.
[12] https://mediatheques.orleans-metropole.fr/ark:/77916/FRCGMBPF-452346101-01A/D18011712/v0121.simple.highlight=MS%200201.selectedTab=record
[13] 原文では「唱句」は、« uersus »。
[14] 原文ではト書きの動詞はすべて接続法現在で記されており、演者たちへの指示であることがわかる。
[15]「演技工リア」原文では« platea »。« platea»は現代フランス語の« place »の語源だが、このテクストでは教会内に設定された演技のための空間を示す。しかしそれが教会内のどの場所(内陣、身廊など)かは不明。
[16] 原文では場は割り振られていない。場の分割はコーエンの翻訳に基づくもの。コーエンは登場人物の入れ替わりをもとに場を分割している。
[17] 「私の汚れた身体」« per inmundiciam mee carnis ».この記述はマルコ・マタイ福音書の「べタニア塗油」の記述を反映したものである。マルコ 14章3節、マタイ26章6節では、イエスを家に招いた人物が« Simonis leprosi »「癩病人のシモン」となっている。ルカ7章36節では« quidam de Pharisaeis »「ファリサイ派のとある人物(後にこの人物が「シモン」という名であることがイエスの呼びかけによってわかる)」,ヨハネ12章1節では« Lazaus a Bethania» 「ベタニア出身のラザロ」となっていて、招待者が「汚れた身体」を持っていることは言及されていない。
なお本稿で引用したウルガタのテクストは、以下の校訂本を使用している。 John Wordsworth and Henry Julian White, eds. , Novum Testamentum Latine secundu editionem sancti Hieronymi, London, Clarendon 1920.
[18] 台詞はすべて歌になっていて、楽譜の下に記されている。行数は台詞の部分のみ。10音節詩行が二行続いた後に4音節詩行が一行添えられ、この三行詩一組(6行)で詩節を形成している。翻訳文中では3行詩を単位に改行している。
[19] 前述したように『ラザロの復活劇』作者は、中世キリスト教の伝統的解釈を踏まえ、ルカ福音書の「罪ある女」« peccatnx »を「マグダラのマリア」とみなし、彼女を演じる者に「娼婦の服装」« in habitu meretricio »を着せている。これを踏まえ、コーエンの翻訳ではこの場の登場人物名として「マグダラのマリア」Madeleineと記している。
[20] この一行はト書きをはさんで続く二詩行と半詩節を形成している。
[21] ルカ福音書7章39節がこの台詞に対応する箇所になる。ルカでは以下の通り。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て心の中で次のように思った。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人物なのかわかるはずだ。この女は罪人なのだ」。« Uidens autem Pharisaeus qui uocauerat eum, ait intra se dicens : Hic si esset propheta sciret utique quae et aualis mulier, quae tangit eum : quia peccatrix est ».
[22] 金貸しのエピソードはルカ福音書しか伝えていない。Cf. ルカ福音書7章41-43節。
[23] 塗油のエピソードを伝える四福音書のうち、頭に香油を注いだのは、マルコ(14章3節)とマタイ(26章7節)である。ルカとヨハネでは、香油はイエスの足に塗られた(ルカ7章38節、ヨハネ12章3節)。
[24] ルカ福音書7章48節に対応。ただしルカの記述は「あなたの罪は許された」« Remittuntur tibi peccata »とごく短い。『ラザロの復活劇』では、福音書にある台詞がそのまま使われることはなく、パラフレーズされた上、福音書の台詞より長くなっていることが多い。『ラザロの復活劇』では福音書の対応箇所のほぼ二倍の長さになっている。
[25] 「ガリラヤ[バレスチナ北部]とみなされる場所」。原文では、« quasi in Galileam ».
[26] 原文では、« ex aduerso ». 教会内のどの場所に対して「向かい側」なのかわからない。
[27] 原文では、« Domus uero ipsius Simonis, ipso remoto, efficiatur quasi Bethania »。前の場でのシモンが退場し、入れ替わりにラザロが入場することから、この二人は別人とみなされていることがわかる。一方マリアを演じる者はシモンの家に留まり、そのままラザロの姉の一人、マリアを演じる。ベタニアのマリアとマグダラのマリアと同一人物と見なされていることが示されている。
[28] この場からヨハネ福音書11章1-44節の「ラザロの復活」に対応するエピソードになる。ただし第三場と続く第四場の台詞には、福音書には対応する箇所がない。これまでに演じられた「ベタニア塗油」の場面は、ヨハネでは「ラザロの復活に続く12章で記述されているが、この『ラザロの復活劇』ではその順序が逆になっている。
[29]コーエンは「マグダラのマリア」Marie-Madeleineとあえて記す。
[30] ヨハネ福音書11章3-6節に対応。
[31] 写本では« anularum ». Blalse, Dictionnaire Dictionnaire latin-français des auteurs chrétiens, Turnhout, Brepols, 1954は« anulaの語義を« vieille femme »としているがマルタとマリアの姉妹が「老女」であるとは考えにくい。コーエンのテクストでは,この箇所を« mulierum »「女たちの」に変更している。
[32] ヨハネは「二日間、イエスはそこを動かなかった」« tunc quidem mansit in eodem loco duobus diebus »と記している(11章6節)。イエスがすぐにガリラヤを出発すれば,ラザロが死ぬ前にべタニアに到着していたかもしれない。しかしイエスは死者をよみがえらせるという奇跡を人びとに示すため、あえて出発を遅らせた。
[33] 第六場と第七場は、ヨハネ福音書の19節に対応する。前の場から少なくとも二日以上経過していて、ラザロは臨終を迎え、その体は腐りはじめている。ヨハネ19 節は、« Multi autem ex Iudaeis uenerant ad Martham et Mariam, ut consolarentur eas de fratre suo »「ユダヤ人の多くがマルタとマリアのもとにやってきた。彼女たちの弟についてなぐさめるためである」というあっさりとしたごく短いテクストだが、『ラザロの復活劇』ではこの部分を大幅に拡大し、パラフレーズして、姉妹の悲しみぶりとそれを慰めるユダヤ人たちのやりとりを情感豊かでリアルな台詞で描き出している。
[34] イエスが生きていた世界では全体がユダヤ人社会なので、いちいち「ユダヤ人」と記すのは奇妙に感じられる。 こでは「ユダヤ人」は実質的にベタニアのマルタとマリアの近隣住民を指している。近所の人たちがお悔やみにやってきたのだ。
[35] ヨハネ福音書の11章7節に相当する。「ラザロの復活劇」では,ヨハネの7-16節に相当する箇所を、19節に相当する前場と順序を入れ替えている。
[36] ヤングの校訂で184-189行目にあたる箇所だが、コーエンの校訂・翻訳ではこの部分が欠落している。
[37] 死海と地中海のあいだにあるパレスチナの一地方。古代ユダ王国の領地に相当する。こではイエルサレムへ向かうことを意味する。マルタとマリアが住むべタニアの村はイエルサレム近郊にある。
[38] ヨハネ福音書11章16節に対応する箇所。ウルガタでは以下の通り« Dixt ergo Thomas, qui dicitur Didymus, ad condiscipulos : Eamus et nos ut moriamur cum eo ».それでディデイムスとも呼ばれているトマが言った。「イエスとともに死ぬために、私たちも行きましよう」。
[39] ヨハネ福音書の11章17-18節および20-27節に相当する箇所。イエスが出発を遅らせたため、イエスが到着したとき、ラザロの死後、四日が経過していた。
[40] マルタはここでイエスを強い調子で批判しているように思える。
[41] レクイエムで歌われるセクエンツィア《怒りの日》の文句を想起させる「怒りの日、その日、世界は灰のなかに消え去るだろう」« Dies irae, dies illa solvet saeclum in favilla »。キリスト教の終末論がここで表明されている。いずれ世界が終わり、終末が来る。この最後のときに、それまでに死んだすべての人間がよみがえり、最後の審判を受け、天国に行くか地獄に行くかが決まる。
[42] 第十一、十二場は、ヨハネ福音書の11章32-35節に対応する。
[43] « Magister te vocat » 三行詩から外れた孤立した詩行。この詩行には音楽がついていない。
[44] コーエンはここでもあえて「マグダラのマリア」Madeleineと記す。
[45] マリアもマルタ同様、イエスを激しくなじっているように思える。非難の言葉の調子は、「ラザロの復活劇」ではマリアのほうが強い。 « Miserere iam nostrum omnium, imserere cuius est proprium consolari »「憐れみください」とマリアが二回繰り返しているのが印象的。
[46] 写本では« Ihesus, fremens et lacrimans in se, dicat »。コーエンは« fremens »を« remeans »に変更しているが、ここでは写本の記述をそのまま採用したヤングの読みを取った。
[47]ヨハネ福音書第11章37-44節に対応。
[48] 包帯でぐるぐる巻きにされたままの姿で墓から出てくるラザロの姿は、中世の教会の壁画レリーフなどに数多く描かれている。